日本語の「世間」と「社会」の違い

 人に物をgiveすることを表現するとき、日本語では「やる」と「くれる」を区別しなければならない。「田中さんが娘に本をくれた」はいいが、「やった」ではおかしい。「娘が田中さんに本をやった」はできれば「あげた」というべきだが、一応間違いではない。しかし、「田中さんが娘に本をやった」は明らかにおかしく、「くれた」と言わなければならない。遠ざかるのか、近づくのかという区別があるからである。さらに、「田中さん」が娘の同級生であるのならこれでもいいが、れっきとした大人なら、「くれた」は「下さった」、「やった」「あげた」は「差し上げた」と言わなければならない。こういった授受関係の動詞は、具体的な物のやりとりを伴わず、補助動詞として用いられる場合にも同様に使い分けられる。「田中さんが娘に宿題を教えてくれた」「娘が田中さんの代わりに学芸会の主役をしてあげた」という具合である。最初に give という英語を用いたのは、こういう授受関係では物の移動をニュートラルに表現する動詞が日本語としては思いつかなかったからである。強いていえば「与える」であろうが、これには、上から下へという語感がつきまとう。

 敬意をともなう「下さる」「差し上げる」は別として、「くれる」と「やる」の区別はこちらに近づくのか遠ざかるのかの区別である。「こちら」とは家族を単位としている。家族の中で「お母さんが弟に本を」のあとに「くれた」が続くか、「やった」が続くかは兄弟の仲のよさによって分かれると思う。「よそ」の人に向って「お母さん」のことを言う場合、日本語ではそのまま「お母さん」と言ってはならず、「母」という。家族の内か外かで言葉が使い分けられる。「田中さんが娘に本をくれた」では、自分がもらったわけでもないのに、「くれた」を用いなければならない。「くれた」は「よそ」の人から自分の「身内」へと物が移動するときに用いられる言葉である。家族の中では「姉さんが妹に本をやった」というし、「他人」同士なら、「田中さんが鈴木さんに本をやった」というであろう。どうせ他人同士のやりとりなのだから、近づくわけでも遠ざかるわけでもないから、「くれた」とは言いにくい。家族内や他人同士での物のやりとりには「くれる」は使いにくい。「他人」の二字は、中国語では文字通り「ほかの人」ということで、家族といえども例外ではない。これに対し、日本語では「家族ないし家族に準ずる人」以外の人をさすようである。

 家族を単位とし、他人の間に上下関係のある日本社会では、「世間」という言葉と違い、「社会」という言葉には実感が薄い。「社会」という言葉は、明治になって英語の society などの西洋語を翻訳する必要から、中国でともに「仲間」を意味する「社」「会」の二字を組み合わせて新たに創られた言葉である。西欧での society とは、対等な個人同士により成り立っており、個々人の力で変えることができると考えられているものであるが、それにふさわしい実状が日本にあるかどうかは、今も疑問である。しかし、「世間」という言葉は日本人の心にはフィットする。個人の間の関係は対等ではなく、個々人の力を超えて厳然として存在する「所与(与えられたもの)」が「世間」と考えられているからである。このため、明治期に西洋からの新しい概念を日本語に翻訳するとき、「世間」は society の訳語とはならず、新たに「社会」という言葉が作られることになった。

 「世間」と「社会」の間の違いの第一は、前者が「悪いもの」、後者が「良いもの」と捉えられていることである。「世間のために」と言えば、あとには「二人の仲は引き裂かれた」というように、否定的な表現が続く。しかし、「社会のために」と言えば、あとには「献身する」とか、「身を粉にして働く」という積極的な表現が続く。これを裏返せば、「世間と闘う」といえば、周囲の無理解に抵抗して自分の意志を貫くこととなり、「社会と闘う」といえば、何か反社会的な集団の一員として悪事にはげむような語感となってしまう。

 「世間」と「社会」の間の第二の違いは、「世間」が部分的であるのに対し、「社会」は包括的であるということである。「あの人は世間が狭い」というように、「世間」は人によってさまざまである。「世間が狭い」というのは自室から一歩も出ない「引きこもり」の若者のような状態をいうのではない。大過なく人づきあいをしているが、その範囲がひどく狭く、他では通用しないような状態をさしている。一方、「世間が違う」という表現もある。この場合は、日ごろの生活圏が重なり合わないことを意味している。「世間」は人の置かれた状況によって千差万別といえる。「社会」のもととなった society にも、「ハイ・ソサエティ」のように、特定の人間関係をさす用法もあるが、一般的には「社会」は「世間」より広い範囲をさす言葉といってよい。子供が非行に走ったときには、「世間に顔向けできない」というが、これは御近所のことをさしている。少年非行は、「反社会的」というには、まだあまりに子供っぽい反抗だと言ってよい。「世間」に当るヤマトコトバには、古く奈良時代から「世の中」というのがあったが、平安時代になると「男女の仲」という意味で用いられることもあった。それも、一般的な男女の仲ではなく、特定の男女の仲という意味である。特殊化のきわみといってよい。

 「社会」という言葉が明治以降に西洋語の翻訳語として生まれたのに対し、「世間」という言葉はもう千年前後も日本人になじんだ言葉である。本来は仏教用語であり、僧侶が出家以前にいた俗世間をさす言葉だったが、かなり古くから今日と近い意味で用いられていたらしい。意味は広がったが、 society のような普遍性は持たず、個々人の置かれた状況の特殊性を常に引きずっていた。仏教用語といえば、「世界」や「人間」も仏教用語である。「人間」の場合、「じんかん」と漢音で読まず、「にんげん」と呉音で読むことが仏教用語であることを示している。「世界」は今日 world の訳語として用いられているが、本来は衆生の生きる領域ということであり、「世間」同様、個々人により、そのイメージするものが異なっていたらしい。

 日本人は「世間」に従って生きる。最近しばしば報道される企業ぐるみの犯罪などは、そのことの証であり、決して社会のために生きていることを意味してはいない。明治に society を「世間」と訳さず、「社会」という新語を作った人たちは、 society と「世間」との違いをきっちり感じ取っていたのであろう。自分の生活圏を超えて「社会」をイメージすることは、今も日本人は不得手のように思われる。それは、一人一人の日本人が、間を置いて、「世間」とつきあうのではなく、ともすれば「世間」の流れに巻き込まれやすいことを示している。そして世間に逆らうものではないということを信条としている。「世間知らず」という言葉はあるが、「社会知らず」という言葉はない。

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