「不安」と「心配」の違いの考察

最近友人から「不安」と「心配」は同じじゃないの? と、質問をされた。
確かにさまざまな辞書を調べてみると、【不安】と【心配】は同義語と定義されているが、私の見るところではそれなりの区別があるように思われる。
言語学者ではないので尤もらしいことは言えないが、私も数年間日本語に携わってきた経験でこの違いについて私見を述べさせて頂く。
まず、日本語においては対象を主観的にとらえるか、客観的にとらえるかによって表現が違うことは周知の事実である。
いわゆる「受動態」「「能動態」がそれである。例をあげれば「見る」と「見える」・「悲しむ」と「悲しませる」などである。
また、表現は違うが対象に対しての方向性も同じことが言える。二人の距離が近づく場合、「相手が来る。」のか「自分が行く」のか、距離が短くなることは同じであるが、そこに表現の違いがあるのです。「歩み寄る」などの表現もありますね。
さて、本題である。「不安」を辞書で調べてみた。
 気がかりで落ち着かないこと。心配なこと。また、そのさま。「―を抱く」「―に襲われる」「―な毎日」「夜道は―だ」
これは外的要因によって自分の心が惑わされるといえないだろうか?
例文をみると、不安=恐怖とも置き換えられる。
つまり、自分自身が被害を受けて恐怖を覚える。というような意味合いがあるようにおもうのである。
一方の【心配】であるが、辞書にはこのように説明されている。
 1 物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。また、そのさま。気がかり。「親に―をかける」「将来を―する」「―な天気」
2 気にかけてめんどうをみること。世話をすること。「近くに住む娘が食事の―をしてくれる」
 これに対しては、外的要因又は相手にに対して、自分がそのように感じる。という表現になるような気がする。
 
 例として自動車の運転が乱暴な友人がいたとしよう。その友人が運転をすることは【心配】だと思う。
その時、その友人の運転する車でどこかに出かけることになった場合、はじめて【不安】という気持ちが生まれるのではないだろうか。
 結論として、【不安】も【心配】も、心を惑わすさま。となるが、厳密に言うと、【惑わす】と【惑わされる】との違いにあるような気がするのだが、この私の意見について皆さんの感想を聞かせていただきたい。

「不安」と「心配」の違いの考察」への3件のフィードバック

  1. なるほど。
    あと、「心配」はよく人のこと、「不安」はよく自分のことに使われるような気もしますけれども。。。

  2. 不安→惑わされる
    心配→惑わす

    人に心配をかける場合はどうでしょう?
    親に心配をかける。
    筆者のとおり考えると、親が勝手に心配をしている。という意味になるのでしょうか?

  3. 不安は発生元への恐怖や拒絶、悪感情を伴い、不安を感じる主体を被害者として扱うのに対して、心配は発生元への共感や思いやりがあり、心配する主体は必ずしも被害者ではなく、庇護する立場からの感情であることもあると考えます。

    あくまで私見ですが。

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